皆さんが学ばれた小学校にも、本を片手に薪を背負った二宮金次郎(尊徳)の像があったのではないでしょうか? 今日は、その金次郎と「お茶のまち静岡市」との縁(えにし)のお話です。
明治初期まで静岡市の中山間地域を支えてきた「ドクエ」(毒荏、油桐)や、日本初の実業補習学校「杉山青年報徳学舎」(通称、杉山青年夜学校、のちの杉山農業補習学校)のことは、前にも紹介してきたところですが、今回は、それらに深い関わりがあり、地域の復興を支えてきた二宮金次郎が唱えた「報徳思想」との関わりについてご紹介させていただきます。
舞台は、「杉山青年夜学校」のある清水区杉山。地元の名主・片平信明翁は、江戸末期の開国後大暴落した「ドクエ油」に替わる換金作物としてお茶を村人に奨励しますが、幾度と壁にぶつかります。明治9年10月、その普及に苦悩する中で出会ったのが、金次郎の弟子にあたる福住正兄(ふくずみ まさえ)が書いた「富国捷径」(ふこくしょうけい)という書物です。この中に記された報徳の教えに感銘を受けた片平翁は、そのわずか2か月後に同志44人で「杉山報徳社」を結成します。
杉山報徳社は、まだ明治政府により学制(明治5年8月から)が発布される前の明治2年から片平翁が始めた「夜学」を強化し、明治11年に「杉山青年報徳学舎」を設立、以後、「貧乏の代名詞」とまで言われた山村を、経済と道徳の融和を基本とする報徳思想を柱に、若者の教育とお茶とミカンの導入による経済活性化を通じ、見事によみがえらせました。
杉山報徳社は、村の復興に向け、青年教育、報徳思想の啓発、資金の蓄積、社会貢献事業などに取り組み、その村民への重要な啓発の場となったのが、毎月社員(村民)を集め開催されていた「常会」と言われています。「常会」では地元杉山だけでなく、庵原地区からもリーダーを招へいし、報徳や経済(農業だけでなく商工業を含む)に関する熱弁が振るわれたそうです。
明治20年代、小さな山村で「実業家の本分」として、“需要者の満足を得ることに力を入れることにより販路を拡張する”“相互の利益を図る”などの趣旨が語られていたというのには驚かされます。
杉山地区では、今でも毎月20日に「常会」が開催され冒頭、全員で「報徳訓」が唱和されています。
「父母の根源は天地の令命にあり 身体の根源は父母の・・・」
数は少なくなりましたが、庵原地区ではこのように毎月報徳訓が唱和され、その精神が受け継がれている地区があります。
お茶の生産が置かれた現状は、本当に難しい時代になったと思いますが、そういう今だからこそ、もう一度先人たちが歩んだ道を振り返る価値があるのかもしれません。